SHIINBLOG

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仕事とか科学とか

労働問題や面白い科学の話題について書き綴ります

日本社会は「信用」を前提としている社会だから、「仕事したか」で評価しないのだ

日本ってなんで「仕事しているように見える」が評価されるのでしょうかね?

 

nzmoyasystem.hatenablog.com

 

私はこれまでに、この悪習に憤りを感じながら生きてきたので、はっしーさんのこの記事には激しく同意します。なぜ「仕事したか」ではなく「仕事してるように見える」を評価するのか?それは「信用していないから」にも頷けます。

そしてさらに考えてみると「なぜ外国人は従業員を信用するのに、日本人は従業員を信用しないのだろうか?」と、さらに疑問に思いました。これについて考察していくと、案外と色々な事が見えてきました。

 

 

長時間労働を美徳とする悪習

日本人は「長時間労働」を美徳とする悪習を持っています。既に若い人達を中心に、それに異議を唱える情勢になっているとは言え、まだまだ根強いです。

ではなぜ日本人は、長時間労働を美徳とするのでしょうか?

それこそ「仕事してるように見える」を評価するからに他なりません。

私が以前上司から言われた言葉も、これを物語っています。

ジオジオはいつも早く帰るから「仕事してるのか?」と思ってたけど、ちゃんとやってたんだな

by数年前の元上司

毎日他の社員よりも早く退社する私を見て、上司は「大丈夫なのか?」と思っていたようです。私はもともと残業は極力しない主義なので、あらかじめ立てた計画通りに仕事が進めば、サッサと帰るようにしていました。上司はその様な私の仕事ぶりを評価してはくれず、「遅くまで仕事するかどうか?」で評価していたことになります。つまり「仕事してるように見える」で評価していたのでしょう。

しかし、それが「ちゃんとやってたんだな」と言う評価に変わったのは、私の「成果」を見たからでした。締め切りに余裕を持たせて仕上げた上に「出来が良かった」ので、上司はビックリしたみたいですね。それからは私を信用してくれたのか、どんどん仕事を任せるようになります(シンドイんですけどw)。そして私から積極的に照査を求めない限り、「成果の中身」をあまりチェックしなくなってしまいました。

つまり「信用された」のでしょう。

 

日本は「信用」を前提としている社会なのではないか?

以上の事から考えられるのは、上司は始め、私を信用していなかったから「遅くまで残業するか」を見て「信用しようとした」のでしょう。結果として「成果」を見ることで信用し、信用したら成果をチェックしなくなった。

まさに「信用」を前提として仕事を任せていると捉えることができます。

すなわち「信用できる部下かどうか」を判断するために私の仕事ぶり(遅くまで残業するか)を見ていたことになります。

そして上司の行動で不思議なのは、私が遅くまで残業しないことで「大丈夫なのか?」と心配してた割には、「途中経過の確認」を行わなかったことです。

なぜなのでしょうか?

職場で部下を管理する上で、仕事の途中経過を確認することは、管理職にとって非常に重要な職務のハズ。しかし少なくとも、これまでの私の上司で途中経過を確認した上司は、1人もいませんでした。周囲の同僚を見てもそうなのですが、そもそも仕事の計画を立てておらず、「とにかく進める」と言った仕事の仕方なのです。

つまり日本人の大部分は、「仕事のプロセスを評価する術を知らない」のではないかと思います。その理由は、部下に仕事を任せる際に「信用できるか否か?」を基準にしているからです。

「信用できる人間に任せる」ので、成果はチェックしない。

「あいつに任せたから大丈夫」だからです。このセリフ、良く聞いたことありませんか?成果を良く見もせず、「彼の仕事なら間違いない」と言ったようなセリフ。

つまり「どのような成果か?」よりも「誰の成果か?」を気にしている。

仕事に対する評価が「属人的」なのです。

仕事の成果を客観的に評価できず、「その人を信用できるか否か」で評価する。そして、その信頼の根源は「遅刻しない」とか「マジメに取り組んでいる」とか「頑張っている」などのような、抽象的な事象の積み重ねに過ぎないのです。

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欧米は「人間は不完全なもの」を前提としたシステムで成り立っている

一方、私が感じる欧米社会というものは、「人間は不完全なもの」を前提としていると感じています。

人間は失敗するし、目を離せばすぐにサボるし、真面目に仕事しない。でもそれは、自分を含めた世間の誰もがみな同じ。人間は神とは違って不完全なのものであって、それは致し方ない。

そういう考えが前提にあるので、「不完全な人間を補完するシステム設計」をしているのです。

だから「求める仕事の成果の量と質と、かかる労力の関係」を把握し、「求める成果に対しての適正な期日と、成果の質」をシステマティックに評価できる体制にしています。

「終わりよければ全てよし」で、途中で何をしようが、期日までに求める成果をあげさえすればよいのです。だから「仕事への取組み姿勢」に注力しなくて良い。
そして適正な期日を過ぎ、成果の質が悪ければ、それはそれで考えます。
でもそれは、決して個人の責任とは捉えません
なぜか?
だって欧米人は「最初から人間を信じちゃいない」から。自分も、部下も。
だから「システムが悪かったんだね。システムを変えよう。」となるのです。

 

つまり欧米人は「人間は不完全で信用できないもの」と言う前提条件なので、「人間を制御するシステム」を構築しています。そのシステムの一環として、「仕事のプロセスの評価」「仕事の最終成果の評価」が行われます。だから途中段階の「取り組み姿勢」なんて気にする必要はないのです。

何か不祥事があっても個人は責めません。だって人間は等しく「不完全」だから。ダメなのはシステムが悪かったのです。そしてシステムの見直しを行い、同じ不祥事が発生しないように計らいます。

ちなみに「人間は不完全なもの」と言う考えは、キリスト教の「人間は生まれながらに罪深いものだ」と言う思想が背景にあるのかも知れません。

 

だから日本は同じ過ちを繰り返す

以上のように考えると、かなりシックリ来ます。

日本は「人間は信用できる」と言う前提に立っているので、仕事は属人的になります。仕事の途中経過や最終成果を評価する必要はありません。なぜなら「アイツに任せたから大丈夫」だからです。その代り、途中段階の「取り組み姿勢」にはうるさくなります。部下を信用できなければ、仕事は任せられないからです。

すなわち、「信用」を担保にしているので、途中段階で「信用できる行動」を求めるのです。結局は「信用していない」に等しいですよね。

そして仕事は「属人的」に評価されるので、失敗した時には個人が責められます。「お前に任せれば大丈夫だと信用していたのに、裏切られた」と言った具合です。まさに「信用する」と言う言葉と引き換えに、責任を部下に押し付ける愚行です。

これにより、日本社会はあらゆる組織において、同じ過ちを繰り返すのです。

 

一方、欧米社会は「人間は不完全」と言う前提なので、それを補完するシステム設計に余念がありません。何か不祥事があっても「そりゃそうだよね、人間だもの」と考え、個人は責めずにシステムの改善に乗り出します。ある意味、寛容な世の中ですよね。

そして日本に比べれば、同じ過ちが繰り返されることは少ないのかも知れません。

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まとめ

なぜ日本では部下を信用せずに「仕事しているように見える」で評価するのか?を考察するうちに、「信用を前提とする属人的な考え方」が浮き彫りになりました。

つまり仕事のプロセスや成果を「信用」で担保するがゆえに、途中段階で「信用できるか否か」を厳しくチェックすることになるのです。

一方、「人間は不完全なもの」を前提とする欧米社会では、不完全な人間を補完するために、プロセスや成果を評価するシステムを構築しています。はっしーさんの記事の冒頭でも、それが分かります。

仕事したかどうかはきっちり管理されている。各人のタスクはチケットとして管理され、完了状態になったチケットの内容を見れば成果は一目瞭然。

原文まま

もちろん、欧米人の習慣が全てにおいて正しいものだとは思いません。

しかし、こと仕事に関するこの様な考え方は、我々日本人は大いに学ぶべきであると考えます。

仕事をシステムで管理することにより、労働力を効率よく運用することができるため、結果として個人の負担が少なく、生産効率が上昇するのでしょう。

ちなみに「信用を前提とする社会」は「年功序列システム」の原型だと言えます。すなわち「どんな成果を残したか」ではなく「何年会社にいたか」で評価するシステム。まさに「信用」を「何年いたか」で判断しているのです。

しかし、現実を見れば一目瞭然のように、「人間は不完全なもの」なのです。

我々日本人は、そろそろ「人間は不完全」と自覚し、「属人的な思想」から脱却しなければなりません。

 

 

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